仏教における瞑想の特徴
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仏教における瞑想の特徴
仏教には、宗派によって様々な瞑想が伝えられています。
現代においては、リラックスしてストレスを解消できたり、健康をもたらしたりと、私たちの心と体に沢山のメリットがあるといわれています。また、大手企業が集中力や生産性の向上などを目的としてマインドフルネス、瞑想をプログラムとして導入しています。
しかし、これらは本来の目的ではないのです。仏教においての瞑想は、悟りを得るための修行とされています。仏教における瞑想をはじめ、仏教がどのようにして始まったのか、瞑想の種類などを解説します。
また、瞑想や坐禅を体験できるお寺もご紹介します。
仏教における瞑想とは
仏教の辞典で、「瞑想」を見てみるとこのように書いてあります。
〈冥想〉とも書く。〈冥想〉は漢語としては、目を閉じて深く思索するという意味。東晋の支遁(ししん)の「詠懐詩」に「道会冥想を貴び、罔象(もうしょう)玄珠(げんじゅ)を掇る」とあり、大道に合一するために冥想が貴ばれている。
深い精神集中のなかで根源的な真理と一体化することを「冥」の字を用いて表すことは、『荘子』およびその郭象の注にしばしば見られる。
「冥冥に視、無声に聴く。冥冥の中、独り暁を見、無声の中、独り和を聞く。」『荘子』天地
「冥然として造化と一と為る」『荘子』養生主、郭象注 など
「冥想」もそうした『荘子』の思考を背景として出てきたものと考えられる。
しかし、伝統的な仏教ではこの語はほとんど用いられていない。近代になって、仏教がヨーロッパで研究・実践されるようになると、禅やチベット仏教の実修がヨーガなどとともにmeditation、contemplationとして理解されるようになり、それが邦訳されて〈瞑想〉と呼ばれるようになった。ヨーロッパにおいても、カトリックやキリスト教神秘主義の伝統では瞑想を重視する。
ここから、仏教の瞑想もこれらのヨーロッパの伝統と比較され、また、心理学や精神医学の領域に取り入れられるなどして、広く普及するようになった。
(引用:岩波仏教辞典 第三版)
仏教においては、瞑想という言葉はあまり使われないと説明されています。
瞑想を行う目的
仏教における瞑想の目的は、真の生きる目的の達成を目標としています。
私たちが知っているマインドフルネスや瞑想は、心と体の健康や日々の暮らしをより良いものにするためにする手段です。
しかし、仏教においての瞑想の目的は、生きるためではなく、人間に生まれてきた目的である、真の幸せを得るためです。苦しみの原因である憎しみ、怒りや欲などの煩悩を完全になくし、穏やかな心を手に入れるためなのです。
仏教とは
キリスト教、イスラム教と並んで世界三大宗教である仏教とは、釈尊(ゴータマ・シッダールタ)が説かれた、仏になるための教えをいいます。王子として生まれ、19歳の時に結婚した釈尊は何不自由なく生活をしていましたが、出家を決心するに至る出来事が訪れます。
「四門出遊(しもんしゅつゆう)」といって、東西南北の4つの門から外出した際、それぞれの門の外で老人・病人・死者・修行者に出会います。出会ったひとりひとりの苦しみに直面した釈尊は、世を厭う心が生まれたといわれています。
その後、釈尊は人間の苦悩はどうしたら乗り越えられるのかを悟るために、6年間の苦行を行いましたが何も得られませんでした。自分を苦しめても、苦悩から逃れることはできないと悟り、修行から身を引いたのです。
そして、釈尊は菩提樹の下で瞑想を行い、35歳の時に悟りの境地に達します。
悟りを得て「仏陀」と呼ばれるようになった釈尊は、80歳で亡くなるまで、数多くの教えを説かれていきました。
エピソード「天上天下唯我独尊」
仏教の開祖である釈尊について、欠かすことのできない有名な伝説にこのような話があります。
釈尊は、この世に生まれた直後に自らの足で立ち上がり、東に向かって7歩いた後、右手で天を、左手で大地を指し示したまま、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」を説いたといいます。
「天上天下」とは、「天の上にも天の下にも」ということで、大宇宙を意味します。
「唯我」とは、自分だけが偉いというように解釈をしている方もおられるかもしれませんが、本当の意味は、釈尊だけでなく「我々すべての人間」を指します。そして、「独尊」とは、「たったひとつの尊い目的」をいいます。
つまり「天上天下唯我独尊」とは、「大宇宙に存在する我々人間のみにやり遂げることができる、たったひとつの尊い目的がある」という意味なのです。
人種や性別がどうだとか、地位、財産、名誉、能力があるかどうかなどは一切関係なく、すべての人間の命は皆平等に尊いのです。
現在でも、釈尊が生まれたとされている4月8日には、誕生をお祝いする「花まつり」が行われています。
八正道(はっしょうどう)
八正道とは、仏陀が定めた8つの修行法をいいます。
・正見(しょうけん)・・・正しく真実を見ること
・正思惟(しょうしゆい)・・・正しく考えて判断すること
・正語(しょうご)・・・正しい言葉を使うこと、心がけること
・正業(しょうごう)・・・※三毒である「貪(とん)」「瞋(じん)」「癡(ち)」を離れ、正しい行いをすること
・正命(しょうみょう)・・・人に迷惑をかけず、収入を得、規則正しい生活を送ること
・正精進(しょうしょうじん)・・・正しいことに向かい、正しい努力をすること
・正念(しょうねん)・・・物事の現象にとらわれず、常に真理を求め、正しい決意をすること
・正定(しょうじょう)・・・安定した正しい心を持ち続けること
これらを毎日の暮らしの中で実践することにより、人間世界の苦悩や煩悩から逃れ、悟りを実現できるといわれています。
※ 「貪(とん)」は、貪欲(とんよく)ともいわれ、必要以上に求める心をいいます。
「瞋(じん)」は、瞋恚(しんに)ともいわれ、怒りや憎しみの心です。
「癡(ち)」は、愚癡(ぐち)ともいわれ、真理に対する無知の心をいいます。
仏教における瞑想の歴史
仏陀の入滅(死)後、紀元前3世紀ごろに仏教は2つに分裂しました。これを、根本分裂といいます。
1つ目は、修行をする人が守るべき規律である「戒律」を厳格に守っていくことに重きを置く「上座部仏教」です。2つ目は、釈尊の教えを多くの人々に知ってもらうことを目的とした「大乗仏教」です。
これらの大きなふたつの流れができた後、さらに細かく分裂していくこととなります。(枝末分裂)
上座部仏教(テーラワーダ)
インドの南の方から伝わったため、南伝仏教ともいわれています。上座部仏教には、戒律を厳格に重んじるという特徴があり、出家し修行をした者だけが悟りに達することができると説きました。
瞑想の修行による八正道の実践により、苦悩からの解放や、より穏やかで充実した生活を求め行くための道すじを示してくれるのです。上座部仏教においては、まずサマタ瞑想を修行してからヴィパッサナー瞑想の修行に進んでいくという段階を踏みます。
大乗仏教
「大乗」とは、偉大な教え・優れた教えを意味しています。インドの北側から中央アジアを経て、東アジア全体に広がっていったため北伝仏教ともいわれています。
出家して修行を行った者だけではなく、誰にでも悟りを開くことができるチャンスがあると考える、一切衆生の救済を目標としている仏教宗派をまとめて大乗仏教といいます。
天台宗
釈尊が残した教えは、インドの北側から中央アジアを経て、東南アジアの国々へ広がっていきます。やがて中国へ伝わり、数多の仏教経典の中の1つである「妙法蓮華経」(法華経)という経典に、釈尊の考え方がもっとも明確に述べられていました。
この教えに注目したのが中国の智顗(ちぎ)であり、天台宗を開くことになります。
天台大師智顗の教えを日本に伝え、比叡山延暦寺で教えを広め天台宗を広めたのが、伝教大師最澄です。
智顗は、止観に重きを置いており、瞑想を3つに分けて整理しています。(三種止観)
・漸次止観(ぜんじしかん)・・・戒律を保ち、修行を行いながらだんだん深い境地に入る瞑想方法
・不定止観(ふじょうしかん)・・・性質や能力に応じて定まっていない瞑想方法
・円頓止観(えんどんしかん)・・・速やかで完全なる究極の瞑想 「摩訶止観」に解説されている
摩訶止観とは
仏教の論書の1つであり、「止観」と略されます。天台大師である智顗が説き明かし、弟子である章安大師灌頂(しょうあんだいしかんじょう)が記しました。未だかつてない優れたものであったことから、サンスクリット語で「偉大な」という意味の「摩訶」がつけられています。
「止」とは、自分をとりまく周りの世界や、迷いなどに動かされずに心を静止させることを意味しています。「観」は、「止」によって正しい智慧を起こし対象を観察することをいいます。
真言宗
真言宗は、平安時代初頭に弘法大師空海によって開かれた大乗仏教の宗派です。中国に渡り、青龍寺の恵果(けいか)から学んだ密教(秘密の教えを意味する大乗仏教の中の秘密教)を土台としています。
呼吸を数える瞑想の「数息観(すそくかん)」や、月輪本尊と呼ばれる満月をあらわす円が描かれた掛け軸を置いて瞑想を行う「月輪観(がちりんかん)」があります。
そして、真言宗の中でもっとも重要な瞑想は「阿字観(あじかん)」です。サンスクリットの「阿」の字に集中することで心を磨き、高めていくという、私たちにもできる修行として弘法大師空海が説かれた瞑想法であり、心を鍛える方法なのです。
禅宗
6世紀前半に達磨大師が中国へ伝え発展した大乗仏教の一派で、日本では臨済宗・曹洞宗・黄檗宗(おうばくしゅう)をまとめた呼び名です。
「坐禅を中心とした修行によって心の本性が明らかにされ悟りが得られる」とされています。禅を通じて心の中で悟りを理解することを重んじており、生まれながらにして持つ「本来の自分」に戻ることを目的としています。
また、中国の達磨から8代目に当たる馬祖道一(ばそどういつ)は、現在の禅宗に大きな影響を及ぼしました。
「平常心これ道なり」という言葉は、その後の禅の思想を貫く根本命題になりました。一般的によく使われる平常心とは、異なる読み方と意味で使われています。
禅語である「平常心是道」では、「びょうじょうしんこれどう」と読み、「日常ではたらく心のあり方」という意味になります。日常生活のありのままが、そのままの悟り「道」だということなのです。
仏教の瞑想の種類
仏教の瞑想には様々な形が存在していますが、主としてこれからご紹介する「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」のふたつに大きく分けられます。
サマタ瞑想(止)
パーリ語であるサマタ(samatha)は、漢訳では音写が「奢摩他(しゃまた)」と表されます。意味は「止」を指し、ひとつの対象(呼吸、シンボルなど)に集中し心を落ち着かせることを目的としています。
ひとつの対象に集中して行う瞑想で例をあげると、数息観(すそくかん)があります。数息観とは、呼吸に気づき続け、心と体の調和を目指す瞑想をいいます。
ヴィパッサナー瞑想(観)
パーリ語のヴィパッサナー(vipassana)は、音写で「毘鉢舎那(びばしゃな)」と表され、「観」という意味を指します。「ヴィ」とは、「ありのままに・明瞭に・客観的に」、「パッサナー」とは、「観察する・心の目で見る・観る」という意味を表します。
釈尊が、確実に悟りを体験できるように教えられた瞑想方法で、自己認識を深めることを目的としたインドにおける最古の瞑想法の1つです。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想をまとめて「止観」といい、これらふたつの瞑想は密接不離の関係にあるのです。
天台宗を開いた智顗(ちぎ)は、天台小止観(弟子が記録した止観についての説明書)にこう語っています。
「まさに知るべし、この二法は車の双輪、鳥の両翼のごとし。もし偏えに復習すれば、すなわち邪道に堕す」
「サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想は、車の両輪であり、鳥の両の翼のようなもの。もし片方だけを修行した場合、よくない道に堕ちるだろう」という意味を表しています。
「四念処(しねんじょ)」
ヴィパッサナー瞑想の1つで、ありのままの自分を観る「気づき」の瞑想をいいます。
「念処経(ねんじょきょう)」にはこのように説かれています。
”ここに※(1)有情の浄化、愁悲の超越、苦憂の消滅、※(2)正理の到達、※(3)涅槃の作証のために、この一乗あり。”
”生きるものが清くなり、愁いや悲しみを乗り越え、苦しみや憂いを消滅し、正理に到達し、涅槃を悟るためにある。”という意味です。
※(1)有情(うじょう)・・・仏教用語であり、感情や意識など、心の動きを有するもの。人間、鳥獣など。
※(2)正理(せいり)・・・正しい道理。正しい道すじ。
※(3)涅槃(ねはん)・・・仏教用語であり、煩悩の火を消し、智慧の完成した悟りの境地。一切の悩みや束縛から脱した、円満・安楽の境地。
四念処によって、※五蓋(ごがい)にとらわれずに生きていくことができると釈尊は説かれたとされています。
五蓋とは、以下のような意味を指します。
・欲愛蓋・・・様々な欲のこと
・瞋恚蓋(しんに)・・・怒り、自分の心に逆らうものを恨み怒ること
・睡眠蓋・・・心が沈み眠くなること
・掉挙・悪作蓋(じょうこ・おさ)・・・心に落ち着きがなく後悔すること
・疑蓋・・・疑い。挑戦に対しての心の弱さのこと
これらの五蓋を捨て断つために四念処を繰り返し行うべきであるとされています。
内容は、「身」「受」「心」「法」のこれら4つを気づきの対象としています。
身念処(しんねんじょ)
歩く、立つ、横になるなどの身体の動きを観察し、身体は不浄であると気づく瞑想です。(不浄観)
受念処(じゅねんじょ)
感覚を観察し、感受は苦であると気づく瞑想のことです。(一切皆苦)
心念処(しんねんじょ)
欲、怒りや愚痴などの心の動きを観察し、変わりゆく心は無常であると気づく瞑想です。(諸行無常)
法念処(ほうねんじょ)
一切は無我であると気づく瞑想のことです。(諸法無我)
瞑想と坐禅の違い
瞑想はアジア南方のテーラワーダ仏教で発展し、坐禅は東アジアの大乗仏教で発展したといわれています。
心が無になる状態を目標とし、呼吸を意識して行うという共通点がありますが、目的が異なります。
瞑想は、脳がほぐれて不安や疲れなどなく穏やかな気持ちになることが目的ですが、坐禅の目的は何もありません。坐禅を行うこと自体が、坐禅の目的なのです。目的を決めず、意味を考えないことです。
ウォーキングを例にして、瞑想と坐禅をみてみましょう。
瞑想は、「運動不足を解消したいから歩く」というように目的を持つものだとします。
一方で坐禅は、「ただ歩く」のです。ただひたすら歩くことで結果的に運動不足を解消できる、というイメージが分かりやすいのではないでしょうか。
瞑想、坐禅を体験できるお寺
日本国内で、瞑想や坐禅を体験できるお寺をご紹介します。
詳しいスケジュールや費用等は、それぞれのお寺のホームページにてご確認ください。
大圓山 瑞龍寺
北海道札幌市にある瑞龍寺は、臨済宗妙心寺派の禅寺です。老若男女問わず、初めての方でも気軽に参加することができる坐禅会を定期的に開いているそうです。
早朝坐禅会、定例坐禅会、初心者坐禅会、そして夜間の坐禅会も開催されています。
高野山(真言宗)総本山金剛峯寺
和歌山県にある高野山の総本山金剛峯寺では、日本国内最大級の石庭、蟠龍庭の中に建っている一般非公開の阿字観道場にて、阿字観を体験できるそうです。
阿字観とは、真言宗における呼吸法であり瞑想法です。
初めてでも僧侶の方が丁寧にご指導をしてくださるということで、小学生以上であれば、どなたでも参加が可能です。週に4日、1日に4回実施されているようです。
大本山妙心寺(臨済宗)
京都府にある大本山円覚寺では、坐禅の体験ができます。
早朝6時から7時半の90分間坐禅を行ったあと、法話を聴くという妙心寺禅道会や、ちょこっと坐禅などもあるそうです。
秋葉総本殿 可睡斎
静岡県袋井市にある秋葉総本殿可睡斎は、東海で一番広い坐禅の場所です。曹洞宗専門僧堂では、365日毎朝坐禅の修行が行われています。
曹洞宗の坐禅は、壁に向かって坐禅をする面壁坐禅を行うそうです。日帰りでの坐禅体験はもちろん、宿坊に泊っての坐禅体験も可能です。初心者の方にも指導を行っていただけます。
仏教における瞑想は修行
仏教においての瞑想は、悟りを得るための修行です。人間に生まれてきた目的である、真の幸せを得るためでもあります。苦しみの原因である憎しみ、怒りや、欲などの煩悩をなくし、穏やかな心を手に入れるためなのです。
また、仏陀が定めた八正道は、私たちが毎日の暮らしの中で実践できることばかりです。
例えば、正語(しょうご)では、正しい言葉遣いを心がけることにより、家族や職場の同僚とのコミュニケーションを改善し、誠実さや理解を深めることができます。
仏教における瞑想を理解することは、現代の私たちの生活において生きるヒントになり得るのではないでしょうか。
瞑想アプリGASSHO
瞑想に興味があるけれど何から始めればいいのか分からなかったり、知らない人と一緒に体験講座を受けるというのは気が引けたりと、なかなか一歩を踏み出せないという方もいるのではないでしょうか。
瞑想アプリGASHHOは、短い時間でストレスを軽減したり、メンタルヘルスを改善したりと、ご自宅で気兼ねなく瞑想をスタートしたいというあなたをサポートします。
また、お寺に参拝したくても様々な事情で行くことが難しい方もおられるでしょう。
メンタルヘルスだけではなく、以下のようなコンテンツが充実しているため、まるでお寺に参拝しているかのように感じることもできます。
- 一般には滅多に公開されないお寺の貴重な動画の配信
- ご利益のあるお話や雑談
- 感謝の気持ちを込めてお寺にご志納ができる
皆様の心と体の健康が向上し、より良い日々が送れるサポートができたら、こんなに嬉しいことはありません。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。