「今、この瞬間」を生きる禅語

禅語とマインドフルネス
仏教の1派である禅宗は坐禅による修行だけではなく、悟りを開くために師匠と弟子が行う禅問答も重要視されています。
禅僧の暮らしや修行を通して得られた智恵を、短い言葉でわかりやすく表したものが禅語です。
禅語は「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずにとらわれのない状態で観る」というマインドフルネスになるためのきっかけを与えてくれます。
今回は日々の暮らしに取り入れやすく、マインドフルネスになれる禅語も5つご紹介します。
禅とは
禅とはサンスクリット語の「ディヤーナ」を音訳した「禅那(ぜんな)」に由来しています。
「禅那」は「心が落ち着いている、心が静まっていること」という意味です。
禅を通じて心のなかで悟りを理解することを重んじており、生まれながらにして持つ本来の自分に戻ることを目的としています。
坐禅が仏教の根本的な修行になったのはお釈迦さまの悟りが関係しています。
お釈迦さまの悟り
仏教の開祖であるお釈迦さまはシャカ族の王子としてインドで誕生しました。
何不自由なく生活していましたが、出家を決意するに至る出来事がやってきます。
「四門出遊(しもんしゅつゆう)」といい、東西南北4つの門から外出した際にそれぞれの門のそとで老人・病人・死者・修行者に出会うのです。
出会ったひとりひとりの苦しみに直面したお釈迦さまは、世を厭う心が生まれたといわれています。
お釈迦さまは人間の苦悩はどうしたら乗り越えられるのかを悟るため、6年のあいだ苦行を行いましたが何も得られませんでした。
自分を苦しめても苦悩から逃れられないと悟り、修行から身を引きます。
あるとき菩提樹の下で「悟りを開くまではこの坐を解かず」と決心し坐禅を組み続けました。坐禅を始めて8日目の夜明けまえに悟りを開いたといわれています。
お釈迦さまが35歳のときでした。
禅宗とは
禅宗とはお釈迦さまと同じように坐禅で悟りを得ようとする仏教の1派です。
禅の始祖といわれる達磨大師も中国で9年ものあいだ坐禅を組み、悟りを開いたといいます。
その後日本へ伝わり、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗(おうばくしゅう)などの宗派に分かれて流布されていきました。
禅宗は坐禅による修行を重んじている点は共通していますが、各宗派によって悟りを得るための方法や内容はすこし異なります。
臨済宗や黄檗宗では、「禅問答」という悟りを開くために師匠と弟子が行う問答を重んじています。
また曹洞宗では、ひたすらに坐禅をする「只管打坐(しかんたざ)」や、日々の暮らしを修行の場として料理や掃除、食事などに無の心で務める「作務(さむ)」を重んじているのです。
マインドフルネスになれる禅語5選
「今、この瞬間」ありのままの自分の心と体に意識を向け集中している状態をマインドフルネスといいます。
あらゆる物事において良い・悪いなどの判断をせず、「今、この瞬間」目の前の現実を意識して五感を研ぎ澄まして観察します。
すると集中力や注意力が向上し、日々の暮らしで気づかなかった物事に気がつけるようになるのです。
過去や未来に囚われるのではなく「今、この瞬間」の現実で自分の心が満ちていれば、不安や怒りなどに振り回されることもなくなります。
そしてありのままの自分を受け入れることがいかに大切かを教えてくれる禅語。
禅語とは禅僧の暮らしや修行を通して得られた智恵を、わかりやすく表した言葉です。
ここからはマインドフルネスになれる禅語を5つご紹介したいと思います。
日日是好日(にちにちこれこうじつ)
「日日是好日」は中国の禅僧・雲門文偃(うんもんぶんえん)の言葉です。「ひびこれこうじつ」とも読みます。
言葉通りに解釈すると「毎日が良い日である」ということです。
自分にとって良いことがあった1日だと嬉しいですよね。
逆に嫌な出来事があったら今日は最悪な1日だと思ったり落ち込んだりすることもあるでしょう。
生きているとさまざまな出来事があります。
状況が変わるたびに一喜一憂していては疲れてしまいませんか。
あらゆる物事に対して良い・悪いなどと判断せずに「今、この瞬間」を大切にしてありのままを受け入れる。
そうすればどんな日であっても、かけがえのない大切な1日であるということではないでしょうか。
平常心是道(びょうじょうしんこれどう)
「平常心是道」は中国の禅僧である馬祖道一(ばそどういつ)の言葉です。
わたしたちが一般的に使う平常心とは、「普段どおりに落ち着いて静かな心」という意味です。
しかし禅で説かれている平常心は「びょうじょうしん」と読み、「日常ではたらく心のあり方」とあります。
またここでいう「道」はサンスクリット語である「菩提」を漢訳したもので、「悟り」という意味を表しています。
平常心是道は「日常ではたらく心のあり方が悟りである」ということです。
嬉しい、幸せ、苦しい、悲しいなどと感じるありのままの心を自分で認めてあげることが大切なのではないでしょうか。
自分の中で生まれる”ささいな違和感”は無かったことにせず、自分に正直に生きていきたいです。
両忘(りょうぼう)
「両忘」の意味は、両方忘れることです。
中国宋時代の儒学者である程明堂(ていめいどう)の「内外両忘するに惹かず。両忘すれば則ち澄然無事なり」という言葉に由来します。
相対する考え方や思いを捨て去ることで、心のもやもやが消え静かで澄みわたった本来の自分を取り戻せるとされているのです。
二者択一の考え方や言葉には以下のようなものが存在します。
【善悪・好き嫌い・白黒・苦楽・大小・敵味方・賛成反対・自他・生死・光陰など】
自分と自分以外のひと、見ているものは同じでも見え方は同じではありません。
こだわらずに自分が持っている執着から離れる。
何が正解か、どんな状態が完璧かなどと白黒つけるのではなく、”曖昧さ”の中から見えてくる世界もあるのではないでしょうか。
柔軟心(にゅうなんしん)
「柔軟心」とは、やわらかい心という意味です。
物事に心がとらわれてしまうと息が詰まり胸が苦しくなり、視野が狭くなって見えるものも見えなくなってしまいます。
思い込みを捨て広い視点で物事をとらえられるようになると、自分とは違う考え方も価値観の1つとして受け止められるようになります。
ほわほわ、ふかふかのやわらかい心を持ってお互いを認め合い生きていきたいですね。
セトモノと
セトモノと
ぶつかりっこすると
すぐこわれちゃう
どっちか
やわらかければ
だいじょうぶ
やわらかいこころを
もちましょう
そういうわたしは
いつもセトモノ
『相田みつを「セトモノ」』
喫茶喫飯(きっさきっぱん)
「喫茶喫飯」は曹洞宗の禅僧である瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)の言葉です。
「お茶を飲むときはお茶を飲むことに集中し、ご飯を食べるときはご飯を食べることに集中しましょう。」という意味です。
食事の際にバタバタと慌ててよく噛まずに飲み込んだり、食後に洗濯物を干すのと食器洗いどちらからしようかと考えたりしながら食べることってありませんか。
禅宗において修行は坐禅だけでなく、食事や掃除などの日々の暮らしの行いも非常に重要視されています。
何を食べているのか、どんな香りがしているのか、食べ物ひとつひとつに真摯に向き合ってみましょう。
視覚、嗅覚、触覚、味覚、聴覚それぞれの感覚に集中すると、自然と感謝の気持ちが生まれます。
食べた物で自分の体ができていることを改めて自覚できるのではないでしょうか。
禅の教えをヒントに日々マインドフルネスに過ごそう
今回はマインドフルネスになれる禅語をご紹介しました。
禅語はわたしたちの日々の暮らしに光を照らしてくれる心の処方箋です。
あらゆる物事に対して良し悪しを考えようとせず、「今、この瞬間」自分の心と体に集中する。
日々の暮らしに禅の教えを取り入れて、ありのままの心でマインドフルネスに過ごしませんか。
ほわほわと、やわらかい心で穏やかに。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。