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瞑想とマインドフルネス

正念と気づきの瞑想

八正道とマインドフルネス

仏教とマインドフルネスには、深い関わりがあります。

八正道(はっしょうどう)とは、お釈迦様が説かれた仏教の教えで、悟りを開くために実践すべきことを8つにまとめたものです。

今回は、『仏教における瞑想の特徴』の記事にも少しご紹介した「八正道」の正念をピックアップして詳しく解説します。

マインドフルネスとどのような関係があるのか見ていきましょう。

八正道(はっしょうどう)とは

八正道とは、お釈迦様が定めた8つの修行法です。

これらを毎日の暮らしの中で実践することにより、人間世界の苦悩や煩悩から逃れ、悟りを実現できるといわれています。

・正見(しょうけん)・・・正しく真実を見ること
・正思惟(しょうしゆい)・・・正しく考えて判断すること
・正語(しょうご)・・・正しい言葉を使うこと、心がけること
・正業(しょうごう)・・・※三毒である「貪(とん)」「瞋(じん)」「癡(ち)」を離れ、正しい行いをすること
・正命(しょうみょう)・・・ひとに迷惑をかけず、収入を得、規則正しい生活を送ること
・正精進(しょうしょうじん)・・・正しいことに向かい、正しい努力をすること
・正念(しょうねん)・・・物事の現象にとらわれず、常に心理を求め、正しい決意をすること
・正定(しょうじょう)・・・安定した正しい心を持ち続けること

※「貪(とん)」は、貪欲(とんよく)ともいわれ、必要以上に求める心をいいます。
 「瞋(じん)」は、瞋恚(しんに)ともいわれ、怒りや憎しみの心です。
 「癡(ち)」は、愚癡(ぐち)ともいわれ、真理に対する無知の心をいいます。

今回は、八正道のひとつである「正念」に注目したいと思います。

【正念】

八正道の7つ目に出てくる「正念」とは、「物事の現象にとらわれず、常に心理を求め、正しい決意をすること」とされています。「念」とは、「気づき」とも訳されます。

また、正念を辞書で調べてみると、「物事の本質をあるがままに心にとどめ、常に心理を求める心を忘れないこと。」とありました。

自分の心を観察し、内側から湧き起こっている感情に意識を向けること、そして自分の体を観察し、感覚器官を通して入ってくる情報に意識を向けて気づくことだといわれています。

ここでご紹介したいのが、仏教用語である「六根(ろっこん)」です。

【六根(ろっこん)】

仏教用語である「六根」とは、私たち人間の感覚や意識などを生じさせる6つの器官や機能のことです。

最初の5つを「五根(ごこん)」と呼びます。

仏教では、器官そのものよりも、その働きを重視する見方があるため「根」という言葉を用いているそうです。

・眼根(げんこん) 視覚
・耳根(にこん)  聴覚
・鼻根 (びこん)   嗅覚
・舌根 (ぜっこん)  味覚
・身根 (しんこん)  触覚 
・意根 (いこん)   意識

そして、それぞれの器官の認識対象を「六境(ろっきょう)」といいます。六根と六境は、常に対応関係にあるのです。

【六境(ろっきょう)】

六境とは、認識器官である六根それぞれの認識対象のことです。六境は、「六塵(ろくじん)」ともいわれます。

・色境(しききょう)・・・眼根によって見られる色彩と形象
・声境(しょうきょう)・・・声や音などの聴覚の対象
・香境(こうきょう)・・・匂いや香りなどの嗅覚の対象
・味境(みきょう)・・・味覚の対象
・触境(そっきょう)・・・触ることで身体に感じられる対象
・法境(ほうきょう)・・・意根によって知覚される概念を含むすべての存在

六境は、自己存在と密接に関係していると考えられています。自己存在とは、私たち人間が「私」と呼ぶものを存在論的にとらえた概念です。アイデンティティともいいます。

たとえば、自分の好きな香りは心地よく感じられますが、他のひとにとっては必ずしもそうとは限りません。また、自分には苦手な音でも、その音を好んで聴くというひともいます。

このように認識対象は、自己を離れて客観的にそこにあるのではなく、自己と密接に関わって存在しているのです。

私たちは、そのことに気づかずに自分が良いと思っているものは受け入れ、良く思っていないものは退けようとします。自分のなかにある常識や思い込みという色眼鏡をかけてさまざまなものをみているのです。

つまり、物事の本質をありのままに心にとどめることができていないということです。

【信心銘】

ここでご紹介したいのが、信心銘です。

信心銘は、中国禅宗第3鑑智禅師僧の著であり、禅宗において諷誦(ふうじゅ)される(読み唱えられる)詩です。

その中にこのような詩があります。

繋念(けねん)すれば眞に乖(そむ)き、

昏沈(こんちん)は不好なり。

不好なれば神を勞す。

何ぞ疎親(そしん)することを用いん。

一乘に趣かんを欲せば、六塵を悪(にく)むこと勿れ。

六塵を惡まざれば、還て正覚に同じ。

智恵は無為なり、愚人は自縛す。

【現代語訳】

くよくよと思い悩めば至道(ひとのふみ行うべき最高の道)に背くことになる。

心が落ち込み沈んでもいけない。思い惑えば心が疲れて安らぐことがない。

どうして好き嫌いをする必要があろうか。

一乘の世界(悟りの世界)に行きたいのなら、六根の対象を嫌ってはならない。

外の世界(六塵)を嫌わないならばそれがかえって仏の正覚(正しい悟り)と同じである。

本当に智慧があれば作為造作をしないが愚かなひとは己に迷って自らを縛ってしまうのだ。

「有るの無いの」「損だ得だ」「生きている、死んでいる」などというのは、事実ではなく分別です。仏教では、「分別」は以下のようなことを意味しています。

【認識主体と認識対象を分け、認識主体を「我れ」として固執すること、または、正しくない推量的な判断や間違った判断】

自分と他人、男と女、内と外など区別することによって、自己中心的な固執が生まれ、苦悩が生じると考えられています。また、言葉や考えによって勝手に作り出す妄想を意味しており、これを戒めているのです。

仏教では、妄想にとらわれず、ありのままの真理を理解する「無分別智(むふんべつち)」を得ることが目的とされています。

マインドフルネスとは

改めて、マインドフルネスを確認していきましょう。

マインドフルネスとは、古代インドの言語であるパーリ語の仏教用語「サティ(sati)」を英訳したものです。(現在、パーリ語は使われていませんが、約2,500年前にお釈迦様が話されていた言葉です。)日本語では、「念」や「気づき」と訳します。

「サティ」には、主に3つの意味があると考えられています。

① 言葉以前の気づき 
② ありのままの注意 
③ 思い起こすこと

マインドフルネスは、仏教において「正念」に当たるのです。

日本マインドフルネス学会において、「マインドフルネスは、今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態でただ観ること」と定義されています。

その内容は、外から入ってくる情報や自分の内側から湧いてくる情報、そのどちらにも注意を向けられる状態に近づいていく「気づき」、そして、得られた情報に対して、自分のなかにある常識や思い込みで決めつけずに、ありのままに受け入れられるようになる「受容」です。

私たちは、無意識に過去や未来に意識を向けてしまう傾向があり、今、この瞬間目の前の対象に意識を向けられていない状態であることがとても多いです。

自分の心や体を観察し、内側から湧き起こっている感情や、感覚器官を通して入ってくる情報に意識を向けて気づくための方法として、ヴィパッサナー瞑想があります。

ヴィパッサナー瞑想とは

パーリ語であるヴィパッサナー(vipassana)の「ヴィ」とは、「ありのままに・明瞭に・客観的に」、「パッサナー」とは、「観察する・心の目で見る・観る」という意味を表します。

瞬く間に起き続ける思い込みやしがらみを理解できるヴィパッサナー瞑想は、「気づきの瞑想」ともいえるといいます。誰もが簡単に実践できる心のトレーニングです。

いつ、どんな時に、何をしていても、「今、この瞬間」の自分に客観的に気づいていくことです。

ヴィパッサナー瞑想の基本は、以下の3つあると考えられています。

1. スローモーション
身体をできるだけゆっくりなスピードで動かすこと。

2. 実況中継
今自分がしていることを、頭の中でシンプルな言葉で確認すること。絶え間なく行うことで雑念が消え、集中力が生まれる。

3. 身体の感覚を感じる
歩いたり、止まったりする度に変わる身体の感覚を感じ取ること。

たとえば、私は今座卓でパソコンを使用し仕事中です。右手と左手を使ってタイピングしています。同じ部屋で眠る子どもの寝息が聞こえます。

お姉さん座りをしている下の足が痺れてきました。足を組み替えます。外で風の音が聞こえます。

明日の朝は冷え込むというニュースを聞いたことを思い出します。右足がかゆいです。

少し疲れてきたので、深く深呼吸をします。吸います。肺が膨らみます。肩が上がります。口から吐いた息が左手の甲に当たります。

眠たくなってきています。でも、この記事を完成させたいという気持ちの方が上回っています。

このように、無意識に行っている動作をはじめ、痺れや膨らみなどの体の感覚を実況します。また、頭に浮かんでくる雑念や眠たい気持ちなどの心の感覚も同じように実況中継し続けるのです。

継続していくことで、日々の暮らしのなかで「気づき」が実践できるようになります。

マインドフルネスと八正道の実践で豊かな人生を

今回は、マインドフルネスと八正道についてご紹介しました。

お釈迦様が説かれた仏教の教えである八正道のひとつである「正念」は、現代のマインドフルネスです。

正念は、「物事の本質をあるがままに心にとどめ、常に心理を求める心を忘れないこと。」

そして、マインドフルネスの定義は「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態でただ観ること」です。

私たちは、無意識のうちに自分のなかにある常識や思い込みを通してさまざまな物事を見ています。仏教では、妄想にとらわれず、ありのままの真理を理解することで素晴らしい智慧が生まれてくるとされています。

ご紹介したヴィパッサナー瞑想は、いつでもどこでも実践できます。

聞こえたら聞こえたままに、見たら見たままに、感じたら感じたままに。

何の解釈もしない、判断しないこと。湧いてきた念を追わない、払わないこと。

「今、この瞬間」をありのままに捉えられるようになれば、ちょっとしたことで悲しくなったり、イライラしたりと感情の波に左右されず、心は穏やかになり落ち着きがでてくるでしょう。

自分のペースで少しづつ、マインドフルネスを取り入れてみてはいかがでしょうか。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

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